夏になる前に観たはずなのに記事を書くのは秋になってしまった。

ずいぶんとまわり道をしたな。映画「パターソン」の話さ。

あきらかに詩が重要な要素になっているこの映画は独特のリズムを持ってるね。このリズムがどこから来るのか思いめぐらせているうちに迷宮に迷い込んでしまったんだ*1。で、つらつら考えてみると、これはゆったりした「歩くリズム」ではないかと思い至った*2。この映画で速い乗り物といっても路線バスだし、チンピラ(ドッグジャックを警告!)の車ものんびり流しているね。「ただ過ぎ去っていくのを眺める」ってところが「歩くリズム」を感じさせるところなのかな。

この映画きっかけで知った フランク オハラ のいくつかの詩は同じような歩行リズムを感じさせるな。「A STEP AWAY FROM THEM」*3とか「The Day Lady Died」*4など。それは定型詩で重要な音のリズムというより、目の前を流れていく『イメージがつくるリズム』ってこと。映画的というのか、絵画的というのか(美術館で部屋から部屋へ移動するときに絵画たちがつくるリズム的な)ひとつひとつのイメージがある意味で消化不良のまま流れていくようなね。

リズムの話じゃないけど「The Day Lady Died」の最終連で「彼女(ビリー ホリデー)が マル ウォルドロン のピアノに寄り添って囁くように歌うと誰もが息をのんだ」ってところで30数年前に初めて買ったCDがウォルドロンの「オール アローン 」だったことを思い出した。どこやっただろ、あのCD。探さなきゃ。

 その他諸々

(19:07)二日目の朝、バスを出す直前にランチボックスを閉じるカットでチラッと詩集「LUNCH POEMS」(Frank O'Hara)の表紙が見えるね。ランチボックスと「LUNCH POEMS」*5。笑える。

(24:53)もちろん、ウィリアム カーロス ウィリアムズとかニューヨークスクール*6の詩人の本もさりげなく出てくる。

ところで自分のなかでは、このリズムは植草甚一の文章と共通するものがあるんだ。街歩きのテンポだね。「古本とジャズ」からちょっと引用しますね*7

さて、迷宮からの出口が見えたな。

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*1:漢詩は五言律詩とか七言律詩など奇数が基本になってる(四言古詩とか古体詩は少数派として)。俳句は五、七、五で構成されている。なぜ奇数なのか? 漢詩を研究している大学教授に尋ねると「リズムでしょ、間がいいんです。奇数の字句は偶数に収まろうとするから。その収まろうとする気持ちがリズムになる。」(カギカッコ内の文章は意訳してます)のようなことを答えてくれた。

*2:

Filmmakers We Love: Jim Jarmusch

bleeckerstreetmedia.com“PATERSON is intended as a celebration of the poetry of details, variations and daily interactions and a kind of antidote to dark, heavily dramatic or action-oriented cinema. It's a film one should just allow to float past them--like images seen from the window of a public bus, moving like a mechanical gondola through a small, forgotten city.”

www.bepal.net《『パターソン』は、ひっそりとした物語で、主人公たちにドラマチックな緊張らしき出来事は一切ない。物語の構造はシンプルであり、彼らの人生における7日間を追うだけだ。『パターソン』はディテールやバリエーション、日々のやりとりに内在する詩を賛美し、ダークでやたらとドラマチックな映画、あるいはアクション志向の作品に対する一種の解毒剤となることを意図している。本作品は、ただ過ぎ去っていくのを眺める映画である。例えば、忘れ去られた小さな街で機械式ゴンドラのように移動する公共バスの車窓から見える景色のように。── ジム・ジャームッシュ

*3:Frank O'Hara
http://www.frankohara.org/writing/

*4:Frank O'Hara reading from Lunch Poems
https://www.youtube.com/watch?v=nWiB2bmDa4I&list=PL5x2QFTTqjVmuYGl8wfaDQfUDHOC1aun6

*5:アーティストたちの もうひとつの「仕事」

www.tjapan.jp「詩集『LUNCH POEMS』(1964年)は、昼休みに彼が綴った詩で編まれている」らしいっす。
そして、記事がいうように「ランチタイムに読んでほしいという誘い」もあるのかな?

*6:ニューヨーク・スクール

ニューヨーク・スクール - Wikipedia

*7:

「六本木界隈と新宿界隈」(初出、笑の泉、1961年)

 ぼくは六本木の俳優座の向かいにある誠志堂へ洋雑誌の古本を買いに行くのが好きだが、いつのまにか癖になったのは、買ったあとで、すぐ雑誌の広告ページや読みたくない部分を破って捨ててしまうことだ。そうすると持って帰るのに軽くなっていい。それで近くの喫茶店あたりで一ページずつ眼をとおしながら破っていると、たっぷりと時間が掛り、こんどは腹がすいてくる。
 そういうときは何となく支那料理が食べたくなってきて、開店のときから行きつけた香妃園にはいり、こんどは破ったあとの中身を読みだすが、そうするとまた時間がたち、そとへ出ると腹ごなしにブラブラしたくなる。けれどあの近所は歩いたって面白いところはないから、どれちょっと、ジミーの店へでも寄ってみようかということになってしまう。
 六本木から三河台町のほうへすこし歩いて、右側の横丁へ眼をやると、ちいさな看板にジミーと緑色で出ているゲイ・バーがあることは、かなり名前がとおっているからご承知であろう。ある晩のことだった。十時半ごろジミーの店にはいって、二杯目のジンを飲んでいるとき、二人連れの女の客があらわれ、カウンターにならんでかけた。一人は中背のふとり型で、コートのうえからボアを襟にまきつけ、ちょっとスペイン・タイプといったところだが、一人はラメ入りキモノ姿で背が高く、髪をブロンドに染めていた。一見して女装のゲイ・ボーイだと分かったが、そうザラにはない感じを出している。ちょっと一緒につれて歩いてみたくなった。
 連れて行くところは、ナイトクラブだが、そう使ったってしょうがないやと考えながら、まあ安あがりな飯倉の88にしようと決めて、タクシーで行ったところ、金曜日だったので客がつまっていたが、それでもテーブルがひとつあいていた。もう七十に手がとどくという黒人シンガーのビリー・バンクスが元気に歌っている。そのあとでオーナーのミセス・ロリンズがご自慢の後藤芳子が歌った。…

出典:「古本とジャズ」ランティエ叢書、植草甚一 著、出版:角川春樹事務所

こんな調子でダラダラと続くもんだから、ついつい引き込まれちゃうんだよね。ある種の呪術的リズムだな。むかしはこんな内容では「やおい」って言われてもしょうがないと思うんだがね(いまのBLって意味じゃないよ!)。